zzそれぞれ「お国柄」というものがあるものだけど、フィリピン人はどうなのか?
とにかく明るい、元気、反面、大雑把、時間を守らない、どんなイメージではないだろうか?文化の違う彼らが日本で働く、日本人経営の学校に入学する場合、そこにはもちろん摩擦も生じる。円滑にいくための取り扱い説明書というものが売っているなら買って読んでみたい。
だけども売っていないので、私の知る限りの、フィリピン人の特徴を説明してみる。
フィリピン人は、すごくシンプルで簡単そうに出来ている気がするのだけど、ロデオでもやっているかの様に、予測不能に暴れまくるから、乗りこなすのは難しい。
はっきり言えば、私は乗りこなす事を随分と前に諦めている。
まず立場や位置関係のポジショニングの見極め方がフィリピン人は半端無くうまい。
よく犬が、家族の中の序列を見極めて、犬自身が自分の序列を判断するなんて聞いた事があるけども、フィリピン人は犬以上に犬の能力を持っている。
組織における人間のポジションや性格、有害無害や、自分に対する好意度合いなどを瞬時に見抜く。
その上でキャラ設定を変えたり、付き合い方を変えたりする。
だから、社長が知るキャラや性格、表情や発言と、別の者が見た場合とは、イメージがガラリと違ったりする。
日本では、ブレないというのが流行しているので、変幻自在に人間性を変える人間に対して抵抗があるかもしれない。
だけども、進化論を唱えたダーウィンは、強い者でも賢い者でも無く変化出来る者だけが生き残ると言っている。
また、見方によっては、変化するというスタンスをブレずにやっているので、ある意味ブレていないのかもしれない。
フィリピン人の自分に対する接し方を見れば、自分が他人にどう見られているのかが分かったりする。
軽口を叩かれるのは、良く言えば心を開かれている。
悪く言えば、舐められている。
これは相手方のフィリピン人を責めても仕方がない。
フィリピン人側は、理屈ではなく、本能で動いている。
完全に舐められていると気づいてフィリピン人を責める前に、自分の脇の甘さを認識した方が良い。
適当な仕事をやっていたり、ダラしなくやっていれば、すかさずそのスキを突いて、フィリピン人側はダラしない事を始め、なぁなぁな関係にしようとする。
このテクニックは本当にお見事だ!
それとフィリピン人は序列など気にせず、決裁権があるところと直接交渉をしようとする癖がある。
例えば、私は日本語教師として、彼等と日々接しているのだけども、ただの1教師でしか無い私に、何か特別な権限を与えられているわけでは無い事を彼等は知っている。
相談事がある時に、私になど彼等は存在しない。
飛び越えて、グループのボスである社長と交渉しようとする。
日本人的な考えでいくと、常日頃接している教師に相談せずに、自分を飛び越えて、上といきなり交渉されると、自分の管理能力が低い気がしたり、自分をないがしろにされている気がする。
でも、彼等は私に何の決定権が無いのを知っているわけだ。
もし、組織の体制として、中間を飛び越えられるのが問題ならば、事前にフィリピン人側に、ボスと直接交渉するのはマナー違反なので、直属の上司を通す様にと伝えておかなければならない。
それとフィリピン人は、おしゃべりが大好きだ。
私が傍目に見ている分には、とても会話が成立している様には見えないのだけど、5~6人が集まって、みんながみんな発言していたりする。
人が聞いているか、聞いていないかに関わらず、みんな自分の言いたい事を言いあう。
基本的には、他人の言っている事は聞かない。
自分が聞きたい事は、聞く耳を持つし、聞け!と命令されれば命令した人の話を聞く。
私は日本人なので、何事にも順番が存在する。
だけども、フィリピンには順番という概念は存在しない。
セブンイレブンでレジの前で待っていても、みんながみんな横入りしてくるので、客が途切れなければ、日本人の支払う順番は回ってこない。
まだフィリピンに慣れていない時、私はフィリピンのセブンイレブンで怒鳴り散らした事がある。
カタコトのタガログ語で居合わせた客と、セブンイレブンの従業員に対して、「お前らは目が見えないのか?」と言ったりしてみたけど、みなキョトンとしていた。
そりゃそうだ。
セブンイレブンの中で、何もトラブルが発生していないのに、突然怒鳴り散らすなんてどうかしている。
フィリピンには、フィリピンのルールがある。
私は日本のルールや道徳に従って、あまりに酷いと感じたので腹が立ってしまったわけだ。
私にしてみれば、完全にフィリピン人が悪いけども、フィリピン人からしてみれば私が悪い。
フィリピンでは、そのルールで、皆が特に困らず、円滑に動いている。
“譲り合い”は世界共通のルールじゃない。
話が逸れちゃったけども、タガログ語を多少話せる程度に文化を吸収しようとしている私であっても、そのあたりなかなかフィリピンに馴染めないでいる。
だから、生徒に囲まれて、一斉に皆に話されると、どう対応するべきか苦しむ。
私としては、1列に並んでもらって、1人1人の話を聞いてあげたい。
だけども、フィリピン人側からすれば、そこまでのかしこまった話では無く、みんなで話している気分が欲しいわけだ。
ならばと囲まれている状態で、1人1人目が合っている者から、話を聞いて対応しようとする。
目が合っている者の話しか聞いていないと察知したフィリピン人は、横から強烈なボリュームの音量に切り替えて、話を横入りしてくる。
フィリピン人は一般的にマルチタスク、1度に複数の仕事の同時進行が苦手と言われている。
でも、私に言わせると、そんな事はない。
むしろ日本人よりも、複数に同時の事をこなしている場面を見かける。
フィリピン人がマルチタスクが出来ないと感じるのは、伝えている人の話を単純に聞いていないか、忘れてしまうだけだ。
実際、彼等は1度にたくさんのオーダーをされる事に慣れていないので、1つ1つ目標を完遂させていくのが無難ではあるけども、彼等の能力が低くてマルチタスクをこなせないわけではない。
今日、TESDAという国家資格の発行機関における、義務付けられている教育時間が終了した事で、学校でささやかながら卒業式を開いた。
もちろん、主役は卒業生。
なんだけども、卒業生は皆で相談してカネを出し合い、私やもう1人の日本語教師であるエリ先生に、感謝の印としてプレゼントを用意してくれていた。
この学校で勉強している間、各生徒達は収入がままならない。
さらに交通費など、支出も発生する。
日本人からしてみれば、わずかばかりの金額であっても、彼等の日給は日本の時給とほぼ同額である。
その給料の中で、家族にメシを食わせたり、日々の生活をしている。
そんな経済状態だからこそ、日本に行きたいわけだけども、ギリギリのカネで暮らしている彼等が、皆でお金を出し合いプレゼントを買ってくれた。
学校からは、生徒達にささやかながらでも、色々と出費をして、卒業式を祝ってあげているけど、私個人では生徒達に何かを用意したりしていない。
というか、生徒にプレゼントを上げるなんて発送は微塵もなかった。
だから、生徒達からプレゼントをもらえるなんて、コレっぽっちも想像していなかった。
彼等の懐事情や生活を知っている私としては、ありがたいと いう気持ちを遥かに上回って、申し訳ないとさえ感じて、素直に喜ぶ事が出来なかった。
そんな感じで感謝の気持ちをプレゼントという形で示そうとしてくれるのがフィリピン人の心意気だ。
先程、ささやかな卒業式と表現したけど、学校に関わっていない人が見れば、小学校の学芸会みたいな、すごくチープな催しだ。
なんだけども、どのチープな手作り感がづごく味わい深くて、心に染みて、なんだかドロドロ涙が出る。
自分の卒業式でさえ感傷的な気分になった事も無いのに、違う人種の、もちろん赤の他人の卒業式を見て、40過ぎたオッさんが汚い涙をドロドロと垂れ流すなんて思いもしなかった。
きっと、我が子の学校の卒業式を見ても、何か琴線に触れる事なんて無いのだろうけど、我が生徒は我が子以上に愛らしい存在だ。
だから、チープな卒業式に胸を打たれてしまったわけだ。
私は日本人なので、日本の仕事場環境の厳しさを知っている。
南国でヌクヌクと厳しさを知らずにノンキに生きてきた彼等にとって、日本の職場環境は地獄にも感じる事だろう。
日々の生活で、言葉が流暢に話せなかったり、多くの事を理解出来なかったりというストレスも合わせれば、日本で働くチョイスをした事を何度となく後悔するであろう事は容易に想像がつく。
それでも、彼等は持ち前のポジティブシンキングで乗り越えるハズだ。
日本の仕事場は戦場だ。
実習生達は戦場に赴く兵士達。
私はそれを涙しながらもバンザイと声をかけながら送り出す肉親の気分だ。
あえて、受け入れてくれる日本の企業の皆様には、大事な我が子同然の実習生達ではあるけど、気づかいしてほしいとはお願いしない。
彼等を受け入れてくれるだけで、十分にありがたい。
そして、実習生達は、体験した事が無いだけで、異国の戦地に向かうのだという覚悟は出来ている。
戦地で、ボスが実習生1人1人を気づかう余裕なんて無いと思う。
ただ、日本に向かう実習生達には、それぞれ色々な思いを抱えて、たくさんの重たい何かを背負って日本に行っている。
それだけ知っておいてくれたら、ありがたいなと思う。
ホントに日本に行く実習生のフィリピン人達は、すごくいい子達だから。
日本の実習生を受け入れてくれる企業の皆様、フィリピン人実習生を受け入れてくれてありがとうございます。
すごくいい子達です。
遠慮せず仕事を教えて、彼等の存在意義を作ってあげてください。
宜しくお願い致します。
そんな気持ちになった卒業式でした。